有限会社マイティーゴードンへようこそ。
取締役社長の在津吾朗です。

出身は福岡県太宰府市の水城という所です。
僕が育った頃は、山と田んぼに囲まれて、のんびりした場所でした。
当時は「筑紫郡太宰府町大字水城」と呼ばれていました。

太宰府町立水城小学校を卒業して学業院中学校に進学。
中学3年生になる春に、同級生には知らせずに福岡市立舞鶴中学に転校、卒業しました。
あのなにかとお騒がせな「のりぴー」こと酒井法子さんが1年生の時の3年生です(*^_^*)
舞鶴中ではとても思い出深い1年間をすごしました。

高校は(そもそもの中学転校の目的とは違う)鹿児島のラ・サール高校に進学しました。
寮生活と「ラ・サール」という言葉の響きに憧れて、よし!東大を目指すぞ!などと思ったものでした(笑)まぁ、世間知らずな中学生だったのです(^_^;)

ところが……進学してすぐに勉強の壁にぶつかり、日を追うごとに進度について行けなくなりました。中学を卒業して間もない子供だったので、この時期、かなりくじけそうになりました。

その後も勉強しているつもりなのに成績は一向に上がる気配が無く、特に数学や物理はちんぷんかんぷん。このままでは地獄のような高校生活になってしまう!
なんとかしなければと必死に考え抜いた結果、高校生活は、勉強でなく部活の剣道に捧げることにしました(*^_^*)

当時の鹿児島は剣道では全国屈指の強豪県。
これに対してわが剣道部は弱小でしたが 弱小進学校の剣道部を日本一に! をスローガンに掲げた挑戦を始めることにしました。

目標を東大からインターハイに切り替え、夢を追いかけることにしたのです。
こうして、親元はなれた暑い暑い鹿児島で、なぜか、剣道一直線!な毎日を過ごすことになりました。

入部した頃には5人前後しかいなかった剣道部は、引退時には部員20人以上に膨らんで「黄金時代」と呼ばれ、大会などでも過去の戦績に比べれば健闘したのですが、現実は厳しく、インターハイどころか九州大会にすら進むことはできませんでした。

でも楽しかった。しんどかったけど楽しかった。打ち込むものがあったおかげで、そう思える高校時代となりました。

そんな高校生活だったので、もちろん現役で大学に進学することはできませんでした(笑)
卒業すると福岡の実家に戻り、当時福岡にできたばかりだった代々木ゼミナールで浪人生活に入りました。

浪人時代には、宙ぶらりんな感覚にずいぶん苦しめられました。
高校生ではなく、大学生でもなく、社会人でもない……なんてことだ!この時期、人生についてかなり真剣に考えさせられました。

このままでいいのか?自分は本当に大学に進学できるのか?高校時代に勉強を放り出してしまったけれど、本当にそれでよかったのか・・・?

1ヶ月ほど不安や葛藤に苦しんだあと、春になる頃には夢を再び東大進学に戻しました。
進学校の落ちこぼれが東大進学!的イメージを膨らませて……(*^_^*)

こうして、高校時代とは一転、まさに東大一直線!な浪人時代をすごすことになりました。
結果的に言えば、剣道と同じく世の中そんなに甘くはありませんでしたが、やりきった感を得ることができました。

一度あきらめた夢を、あきらめたままにせず、真剣に追いかけて取り組んだ一年間。

中学生の頃夢見た「東大進学」については海の藻屑と消え去りましたが、
お陰で受験勉強に対しては完全燃焼して区切りをつけることができました。
あの時あきらめずに取り組んで本当によかったと思います。

そんな状況だったので、2年間の受験戦争で唯一合格通知をくれた慶應義塾大学経済学部に喜んで進学しました。
慶応義塾での4年間の大学生活では、経済学の勉強、英語の学習、道場での剣道稽古に没頭し、あっという間に時が過ぎていきました。

3年に進学してすぐ始めた就職活動中に思うことがあり、周囲の猛反対を押し切って、当時決まっていた東京の就職内定先をことごとくお断りして福岡に戻ることにしました。

1992年4月、福岡市博多区に本社を構える九州松下電器株式会社(現パナソニックコミュニケーションズ社)に入社し社会人デビュー。

九州松下電器では、北アメリカ向けの情報通信機器の輸出事業で随分と鍛えていただきました(^_^;) 海外営業統括部門の北米担当として配属されると、入社2年目の4月にはアメリカ松下電器(MECA)に出張する機会を得ました。同じ年の夏にはアメリカ東海岸に担当地区を持ち、単身ボルティモアに出かけては現地のセールスカンパニーと共同戦線を張りました。

以来在職中の4年間、年のおよそ3分の1をアメリカで過ごすという、それはそれは激しい海外出張生活を送ることになりました(笑)

そんな貴重な体験をさせてくれた九州松下電器には、今でもとても感謝していると同時に、途中で退職してしまったことを心から申し訳なく思っています。

1996年、実家の事情があり、4年間お世話になった九州松下電器を退職することになりました。

当時、出張先のアメリカでは、時代の中心がSOHOからインターネットへぐんぐん変化していました。

そのすさまじいスピードを目の当たりにし、その可能性を感じた僕は、密かに1年以上、少ない自分の時間を総動員して情報通信技術について独学していました。

退職する際、そんな経験を何かで活かせないかと考えました。

このような経緯から、退職して実家の工場を手伝う傍ら、インターネットビジネスを行うことを目的に「マイティーゴードンカンパニー」を設立することになりました。

あれから20数年…相次ぐ平成不況の波に翻弄され、実家の工場はなくなってしまいましたが、あの日設立した小さな会社は、おかげさまで今日にいたっております。

この間、ほんとうに色々なことがありました。これからもきっと色々なことがあると思います。

これからも、そんな「色々」をみなさんと一緒に綴って行ければと思います。

今後ともよろしくお願いいたします。

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